昭和50年3月10日 朝の御理解



 御理解 第41節
 「信心は話を聞くだけが能でない。和賀心からも練り出すがよい。」

 あぁでもなかろうか、こうでもなかろうかと自分の信心を検討する。そこから何か翻然としたものが頂ける。絶えず矢張りそういう姿勢を持っておかなければ、信心は進みません。今日の御理解は有り難かったと唯聞いて帰っただけではいけん。その教えが果たしてどの様に、自分の生活の上に、生きた働きを現しておるかと。その生きた働きを現しておらなければいけない。そこでなら生きた働きを現してないと、なら言うならばお話も頂く、朝参りもさせて貰う。
 一生懸命御祈念もさせて貰う。所が形の上に言わば現われて来ない。おかげになって来ない。願うた事が一々おかげになって行くと言う様な事は先ずない。ではそれは無いのが本当です。それには余にもお互いが唯自分の我情我欲だけを願っておるからですけれども、そこで、是は我情だ是は我欲だ。是は願いの筋が違ってるんだという風に、解らせて貰う。例えて申しますと、もう十文なら十文の足袋を履いている。
 十文の足の人がです。どうぞ十一文の足袋を下さいというても、それは親神様ですから、私共の願いを聞いて下さる筈ないです。お前は十文で丁度良い。十一文やら履きよるとガバガバで可笑しいと。それをどうでも十一文下さいと言う様な願いをしておる様な場合がありはせんでしょうか。そこで本当に、自分は十文で良かったんだ。十文がちょうど良いんだと解らせて貰う時に、言わばおかげの実感と言う物がそこにある。有り難いと思う解らせて貰う。
 子供が映画なんかで、例えばあのチャンチャンバラバラあの、見て帰って、そして自分もあぁいう刀が欲しいと。ね。例えば親に願っても、あぁそうかというて、おいそれとなら親が買ってはやりません。ね、ビガビガ光って、しかもすかすか切れる様な。ね、刀を買うてくれというて願ってもです、子供に買うて与える筈がありません。買うてやるなら、言うなら、所謂怪我せん様な言うなら玩具の刀しか与えられません。それとよう似た様な事がありゃしませんでしょうか。
 例えばお金を持ち付けない人がね、お金のお繰り合わせを願う。願い通りになったら、そのおかげで怪我するです。それこそ気違いに刃物と言う様に、子供に例えば、なら買うてくれと言う様に、本当にスカスカ切れる様な刀を持たせたら、人にも怪我させるかも知れん。自分自身も怪我するかも知れん。そういう危険な物を親が与える筈が絶対にないです。ね、本当にその刀を使いこなせねる。言うならばお金を本当に、神様がお喜び頂ける様に、使いこなせれる所を見届けてしか神様はお金は下さらんです。ね。
 乳飲み子がお乳を願って、まぁ夜も夜中もない様に、言わば泣きます。ね、そこで親はお乳を作ってやらなければなりません。如何にせがまれたからというて、ね、口を火傷する様な熱い乳を飲ませる筈ありませんよね。それをフーフーして、ね、そしてそれを冷ませて、丁度飲み加減にならなければ与えないよ。それをもう火の付く様にヤーヤーいうて、さぁ飲みたい。それがなら赤ちゃんの心ではありましょうけれども、まぁ少しはひもじゅう思いをさせてもです、ね。
 ちょいと待ちなさいフーフーしてやるからと言う事になるでしょう。確かに自分達の願いが、もう本当に、もうそれこそ堪らんと言う様な願いをさせて頂いておりましてもです、おかげが頂けん時には、只今まぁ二、三の例を申しました様にです、神様には神様のご都合があるんだと言う事です。ね、自分の都合だけを述べて、自分の都合だけを中心にした祈りではおかげになりません。
 だから話を聞いておかげを頂いてあ有り難いと例えば解ってです、言っておるからおかげが直ぐにも伴いそうですけれども、神様には神様のご都合があるんだ。そこで神様のご都合が分からせて頂く事の為に、言わば精進しなければいけません。ね、又は努力する事になるのです。それでまぁ色々にその辺の所の工夫はあります。子供がおやつをねだる。今やったばっかりじゃないの、と言うて例えばそのおやつ的な物でもです、頂いたら又食べると言う様な事をいうても、親は中々おいそれとやりません。
 所が例えばその、子供がですね素直にしておる。まぁいうならば親のお手伝いでもする。ちょいと買い物に行ってくれという時には、買い物に素直に言う事聞いて買いに行ってくれる。ちょっとそこをお掃除しておいてくれというたら直ぐお掃除をする。まぁまめまめしゅう親の、まぁ機嫌取ると言う訳じゃないけれどもね、親の心に沿う生き方にならせて貰うと、ねだらんでもやらなければおられないと言うような物が親の情に湧いて来る。御用なんかであってもそう言う事だと思うですね。
 一生懸命例えば教会の御用のあれも、等でもさせて貰う。それはそこには神様の、その情と言う物がです、ね、本当にまぁまめまめしゅうよう親の手伝いをしてくれるから、ね、やはりこちらが願わんでも、まぁおやつの時間になりゃおやつをちゃんと下さる様なもんじゃないでしょうか。そう言う様な事がです、練り出さなければ解らんのです。人真似ではいけん。自分の心から矢張り練り出されなければいけん。又は神様のご都合を解って、神様の、そのご都合にいうなら沿え奉る。
 自分本位の願いであったのが、神様本意の願いになって来ると言う様にです、それでも尚且つ解らなかったり、それでも尚且つおかげが現われて来ない。愈々練らなければ行けない時。信心の所謂共励を致します。あれは信心の練り合いという。そこでその練り合うその心の状態と言う物がです、ね、おかげの頂けん方に練り出す人がある。ね、本当に心が助からない方へ練り出す人がある。楽な方へもって行こうとする練りだし方をする人がある。問題は練り出したそこの向こうにはです、自分の心がスッキリする。
 自分の心が有り難うなる。そういう答えの出る様な練りだし方をしなければいけんのです。今日の共励会はおかげ頂いた。愈々練って練ってあそこが解らせて頂いた。ね、その心の上の助かりと言う物がです感じられる様な練り、練り合いでなからなければいけんのです。昨日は久留米の井上さんの所の御婆ちゃんが亡くなられまして、丁度百日に当たっております。百日祭が四時から御在ました。親教会の親先生の三十日祭でも御在ましたから、私共は親子であちらへ参る。
 それで帰らせて頂いてから、直ぐまぁ霊祭に、ここの霊祭に掛からせて頂いた訳ですけれども。本当に有り難い、本当に有り難い霊祭でした。金光様のご信心で、あの霊祭をすると言う事は、だから矢張り金光様にならなければいけない。改式もせにゃおられない。また霊祭も手厚うさせて貰わなければ、おられないと言う事を感じます。昨日の朝の御祈念に、吉井の熊谷さんがこんなお届けをなさいました。その前日に、熊谷さんのお姉さんが「だいろうばる」嫁っておられます。
 そりゃ大変な豪農で、大変な物持ちだそうです。そこに何時もその、いわゆる示現活動に行って、お話をなさる。だからお姉さんはそういう時にお参りになる。又は姪御さん達も色んなお願いがある時には参って見える。けれどもそのご両親というのが、大変なその仏教の信心をまぁ手厚うされるわけで。お話の持って行き場持って行きようがない。もう晩でももう、それこそ心行くまでそのご仏前に座って、お経を長々と上げられてお勤めをなさるそうです。
 ですから中々金光様の信心の、その有り難い所を話そうと思うても、話するその切っ掛けが出来ん訳ですね。それだけ手厚く仏教の信心しよんなさいますから。けどもどうして、示現活動させて頂きたいというお取次ぎを頂いてからお出でられました。で昨日のお届けなんです。あちらも丁度お爺ちゃまが亡くなられてから、一年のご法事があった訳です。昨日一昨日。それで向こうへ行かれました所が、そのご養子さんが、叔母しゃま、あの坊さんなもう今帰られましたち。
 それでまだおご馳走も出来合わせとらじゃったばってん、もう出来とるとだけ重箱に積めちから、あの帰って貰ましたち、言われたそうです。そん時に熊谷さんがもう此処から示現活動が出来ると思うたと言われました。ね、如何に例えば仏様を拝む、毎晩拝みよるというても唯拝みよんなさるだけで、教えも何も解っておんなさらん事が解った。そこで天地金乃神様生神金光大神の信心をです、愈々この人に説かせて頂いたら段々信心はそういう風な好きな方ですから解って貰えるだろうと思うたというのです。ね、
 それはまぁその後に親戚の方が集まられて、それこそもう大変なもう、もうそれこそ大変なおご馳走だったそうです。もうお土産なんかはもう、引きもんからこう、とても自分一人で持ってどん帰られる事じゃなかったから、帰りにはね、自動車で送って貰う程しに、そのおご馳走があったりお土産があったりしたそうです。取り合えず言わばまぁ田舎では、まぁそういう物持ちでもありますから、弾みなさる。同時にまぁ親戚からさぁ餅やら饅頭やら沢山持ってるでしょう。
 もうそれだけでも大変沢山な事。まぁいうならばその一年のご法事に沢山のお金を掛けられた。お坊さんが来られた。そんならお坊さんと一緒になら御祈念をすると言った様な事じゃなくて、まだお御馳走も出来よるとこじゃったけれども、出来とるだけを重箱に詰めちからもう持って帰って貰うて、お経はもうあげて貰うた。
 後はもう内内で、言うなら御直会というか、何ていうでしょうかね、そのお善部が出来ておりますから、まぁそれに付かせて頂いたと。それこそお土産は一人で持って帰るだんじゃないごとあったから、自動車で送って貰うたと言う程しのご法事をなさった訳です。それだけの沢山な金を掛けられた訳です。けれどもその言うならば、熊谷さんが直ぐ悟られた様に、ここの養子は御養子ですからね。養子は信心はするけれども、信心の教えというのが分かっとらんから、お道の信心の話をして聞かせよう。
 聞いてもらおうと思うたというて、その後のいわゆる示現活動をなさって、お話をさせて頂いたというお話で御座います。私はその話を、昨日の井上さん所の、方達に聞いて頂いた。あちらもご養子ですからね。けども向こうご養子というと如何にも当てつけたごたるからまぁ養子とは申しませんでしたけれども、ね、本当にあの解って頂きたいの一念で、まぁその事を聞いて頂いたんですけれども。
 仏教で一番大事にされなければならない教えというのは、仏法僧と言う事です。是が一番大事にされなきゃならない。仏教の芯なんです。仏と言う事は仏様。言うならお道で言うなら信心。神様と言う事でしょう。法というのは、教えと言う事でしょう。僧というのは、お坊さんの事でしょう。この三つがね出来なければ仏教しん、本当の信者とは言えない。仏様を大事にする。教えを頂いて、その教えを守らなければ。そしてそれを教えて下さるお坊様を大事にしなければいけない。
 是が言うならば熊谷さんの場合はです、ね、是が出来ていないとこう思われた訳です。ね。坊さんでん何でん、いうなら軽う見ちゃる訳です。まだおご馳走も出来とらじゃばってん、まぁ出来とる所を重箱に、もう積めて持たせて帰したら、もうそれで例えば、まぁ最近の坊さんはそうかもしれませんよね。もうお経さえちょっとあげて帰ればね、それを信心と言う様な風には思ってはないかも解りません。
 お坊さんもお坊さんなら、それを受ける方ななら受ける方も。是では信心にならないいや仏教にも今言う様に、仏法僧というのがあるのにその仏法僧と言う物が大切にされてない所に、現代の仏教の言わば衰微が私は有ると思うです。ね、仏教によって助かるとか、と言う事が全然ない。私はそのお届けを聞かせて頂いてから、同じ例えばあの熱心に拝むというても、本当に寂しい事だなぁと思わせて頂いたら御心眼にね、あの京都の竜安寺に「吾只足るを知る」という、あのお手洗いのお手水鉢があるんです。
 有名な。ね、中がこう口の字になって四角い、そこに水が溜まる様になってる。その上にこう、上には例えば漢字の五という字が書いてある。だからまぁ漢字の五という字と下の口で、吾と言う事になる訳です。ね、吾只というのは、それにこう書いて、あの口を反対に。足るという字は、足と言う字が、ですけれども、その口という字の下にこの疋という字が書いてある。と言う様にですね、そういう仕組みになっておるのが、「吾只足るを知る」という、有名なお手水鉢なんです。ね、
 それをねあの一文銭の形で頂いた。一文銭のに中に四角ほげとるでしょう。それ字が、その「吾只足るを知る」と言う事が書いてあって、それが四つにです、こうまぁ四つに割れておる所を頂いた。四つに。ね、そしてそれをこうずれた様な置き方をしてある所を御心眼に頂いたんです。一つ皆さんその事を思うて御覧なさい。「吾只足るを知る」と書いてある丸いこの輪のね、それを四つに割ってこうずらかしたら、もうそれは吾ともならなければ足るという字もならんのです。
 そうでしょうがずれますから。と言う程しに今の仏教はずれておると言う事なんです。所謂人が助かると言った様な事。なら「吾只足るを知る」と言う事は、もうあなたは助かっておると、どんな場合であっても有り難いというのですよ。どういうお粥さん頂きよっても自分はそれで満足だと。どんなお粗末な着物を着とってももう是以上の物はのぞまんという心の状態、助かっておる状態がです、今の仏教では頂けない事が解るじゃないかという御理解なんです。
 昨日、私は井上さんの所の霊祭の時に、あの神様の方へご挨拶申し上げておりましたら、その熊谷さんの後に頂いたその事の一文銭をですね、をずらかさず、もうちょこっとばっかりずれておる所をこう頂いたです。だからまぁまぁ読める事は読める訳ですね。だからきちっとこう揃えば、輪になるのですし、まちっと揃えば「吾只足るを知る」と言う事になるのです。だから井上さん本当にね、おばあさんの御霊様が助かられると言う事と、ね、遺族の者が助かると言う事。
 遺族の者が助かる時には、御霊様も助かっておる。御霊様が助かられる時には、私共も助かっておると言う様なです、そういう交流した助かり方がなされなければいけんのです。昨日の御理解の中にも申しました様に、萩の市川さんのお話を致しました。ね、本当に思えば思う程、それこそ今まで気付いていなかった事がです、合楽の親先生との出会いと言う物がもし市川家になかったならばです、今頃はどうなっとっただろうかと思うたら、こりゃもう大変な事だなぁと。
 合楽の先生との出会いと言う事が、こういう大変な事である事に気付かせて頂いて、今日はわざわざ改めてお礼の参拝させて頂いたと、もうそれこそ手厚い、言う事だけじゃない。思うだけではない。それに形を添えてのお礼のお届けでした。私がもし合楽との、親先生との出会いというのがなかったら、そこにです、所謂仏法僧である、例えば僧を尊ぶと言う物が生まれて来るのです。ね、お道の信心はです、ね、取次者を生神金光大神と拝める様になる稽古だ、とさえ言われております。ね、
 ですから、その親先生と大事にすると言う事と、教えを頂くと言う事と、神様を大事にすると言う事。是は仏法だって、金光教だって同じだと言う事です。けれどもです、ただ違いはです、ね、金光教の信心は何処迄も願いの信心なのですから、ね、成程現在頂いておるおかげだけでもおかげの世界にある。神様のご恩恵を受けておると言う事を悟らせて貰うて、お礼を申し上げると同時にです、ね。
 なら是で足るとは思わない。もっともっと信心を進めてです、お粥ご飯しか頂けんなら、硬い御飯が頂けれる様に、お粗末な着物しか着とらんのなら、その事にも感謝を奉げると同時に、もっとましなおかげの頂けれる世界に出て行こうというのが、金光教の信心です。願いの信心ですたから。ね、「吾只足るを知る」というて悟り、先日からの御理解、悟り済ましておるという信心ではないです。
 そこからの信心です、ね、合楽示現活動はそうです。思うて見ると本当に、貧争病のない程しのおかげを頂いておるなと。おかげ頂きたらんごと思うとったけども、頂いておるなと気付く事なの。気付いてそのおかげを、なら人にも伝えて行こうと言うのが、合楽示現活動なんです。そういう生き生きとした願いを持つと言う事なんです。皆さんが日々おかげを頂かれてです、いうならば「吾只足るを知る」という、その心すらまだ生まれていないならば。
 例えばなら生まれておって、私だん合楽に御神縁を頂いておった事が有り難かったとなら解っただけで、示現活動になろうとする姿勢も示さなかったならば、それは可笑しい。そういう例えば事が出来ていないとするならばです、私の心の中に、俺只たるを知る、というその心が生まれていないとするならばです、是はこれはお話を頂いておるだけで、練り出しが足りないんだと、先ずは悟らにゃいけんです。
 そして練り出させて頂いたら、本当に、おかげを頂いておるなぁ、「吾只足るを知る」と言う事が答えに出て来たらです、あなたの信心は今間違っていないと言う事になるのです。どういう素晴らしい事を練り出させて頂いても、解ってもです、そこの所が出来なければ、それは練り出した値打ちはないです。おかげを受けておると解らせて頂く。そういう答えが出て来る。
 おかげ頂き足らん様な思い方がです、どうしてじゃろうか、どうしてじゃろうかと思うておったが、それは頂かないはずだと言う事をさっきからの、幾らも例で申しましたね。十文でよい足袋を頂けばよいのに、十一文やら十二文ば願いよる様な信心だからだと。ね、本当の使いこなしも出来んのに、金を下さいというておるから、まだお金が下さらんのだという風にです、解らせて頂いて。
 そこからの信心が練り出されて、そして、吾只たれを、足るを知るという、いうならば極楽の世界とでもいうか。ね。おかげを頂いておると言う事を実感させて頂く。そういう答えが出て来る訳です。そういう事が出て来なかったら、もっともっと練らなければいけない。しかも練らさせて頂いたその、なら答えをもってです、示現活動に参画させて頂くと言う事になる時にです。
 生き生きとした金光教と言えるのです。生き生きとした信心を頂いておると言う事が言えるのです。「此の方の道は話を聞いて助かる」と言われる。だから所が又、なら聞くだけではいかんと。和賀心からも練り出さなきゃ。練り出すと言う事は、私はおかげを練り出すことだと思う。勿論これは有形無形ですね。自分の心の中に頂くおかげ。形の上に現れて来るおかげ。
 先ず自分の心の中にです、それこそ「吾只足るを知る」と言う様な心の状態が開けて来る。そこに感謝の念も自ずと起こって来る。その感謝の念をです、是を人の伝えて行こうというのが、示現活動という其処迄です、信心が進展して行かなければなりません。またそう言う答えをです、ね、出して行けれる練り出し方でなからなければいけないと言う事です。